宮沢賢治を訪ねて
「宮沢賢治を訪ねて」

1997年岩手県へ


 6月の初旬の梅雨にはまだ早い雨の水曜日、花巻駅のホームに降りたのは
午前7時30分を少しすぎた頃だった。東京ではこれから始まる通勤地獄を予感させる
空気が満ちている頃だろう。しかし私が列車からゆっくりと最後に降りたときは人影は
斑であった。ベンチに腰を下ろしリュックの中から菓子パンとジュースを取り出し
朝食にする。花巻の町は優しい雨が線路を濡らしていた。昨夜、夜行バスで東京をでて
予定の時間よりも早く盛岡に着いたのは事故も渋滞もなかったおかげだろう。バスの
中ではゆっくりと眠ることが出来た。

 簡素な朝食をゆっくりとすませホームから改札をでるとそこにはホームの
静けさとは異なり人々の活気が満ちている。「電車の本数が少ないためだろうか?」
急いでホームに行く必要がないのだ。人々は思い思いにおしゃべりなどをして時間を
つぶしている。私は明るい声で話している女子高生の横を「女子高生はどこでも
同じだな」と苦笑しながら駅の外にでてみると細かい雨がサラサラと顔と手に
当たって気持ちが良い。駅は小さく目の前には私が泊まるホテル以外は目立った
建物はない。小雨の中を数分歩いてホテルに入った。

 フロントで今日予約している旨を伝え荷物を預けてから喫茶店に入ると回りの
テーブルから宮沢賢治の話題をする声が聞こえてくる。私はその時に初めて花巻に
来た実感を得た。コーヒーを2杯ほど飲み時間をつぶす。フロントに向かいタクシーを
呼んでもらいロビーで待っていると、大きな雷が鳴り外を見ると細かい雨はいつしか
大粒の雨に変わっていた。フロントのタクシーが来たという声に促され傘を借りて
外にでるとどんよりとした雲から大粒の雨がバシャバシャと車道を叩いている。
女性ドライバーに「宮沢賢治記念館まで」と告げて雨の花巻の町をタクシーは
ワイパーの音を単調に響かせて走っていく。

 女性ドライバーの話によると花巻の町は人口が6万人ほどだそうだ。車は程なく
商店街を抜けて緑の多い風景の中を走る。駅より西北の所に胡四王山の中腹に
宮沢賢治記念館はあった。
建物は平屋で大きくはないがきれいに整備されている。建物の入り口よりも10数
メートル手前で車を降りて建物の入口に雨の中を歩いていくと、開館を待つ人が
数人ロビーで待っているようだった。私もロビーの隅のソファーに腰を下ろし
開館を待った。

 ロビーには宮沢賢治が正面を向いた写真が迎えておりお茶が飲めるコーナーも
併設していた。受付の横には売店があり宮沢賢治のグッズを売っているようだ。

 開館の9時になって受付が始まった。まずは宮沢賢治の一生を10数分の
ビデオにした物を見る。その次にこの記念館の特徴であろう宮沢賢治の代表作である
注文の多いい料理店やセロひきのゴーシュなどの作品が幻灯機によって観賞出来る物を
楽しんだ。これはボタンによって作品を選択する事が出来る。私は時間に余裕が
あることを良いことに端から見ていった。又銀河鉄道の夜などの作品にでてくる
天文学の言葉を説明した幻灯機もあった。
その他の展示物は直筆の現行のコピーや宮沢賢治の使った身の回りの物などが
展示してある。この記念館は1時間少しあれば見て回れるだろう。私はひとつ
ひとつの展示物を確かめるようにゆっくりと回った。こぢんまりとしているがよく
まとまっている感じがした。

 私は記念館をでてそのしたにあるイーハトーブ館にも行ってみた。ここは
宮沢賢治の作品を映画として見られるとともに賢治の過ごした時代の岩手県地方の
風俗や文化を紹介していた。又ここでも賢治グッズの販売をしている。私はここで
銀河鉄道の夜のビデオと朗読のCDを買った。

 昼食を山猫軒という「注文の多い料理店」をモチーフにしたレストランが
宮沢賢治記念館に併設してあったので、そこに入ってみた。特に変わったことのない
レストランだがメニューの名前はさすがに宮沢賢治を意識した名前が並んでいる。
私はその中からイーハトーブ定食を注文した。味の方はお世辞にもうまいとは
いえなかったがしょうがないだろう。これらの施設は花巻市の市営なのであるから。
1時間ほど昼食に時間をとってからタクシーを呼び記念館を後にした。雨が降って
いることと疲れていたためにどこにも寄らずにホテルで休むことにした。雨はまだ
降っているが小雨になっていた。夜にはやみそうな空模様をしていた。
これならどうやら今夜イギリス海岸に行けそうである。

 チェックインの時間には少し時間があったが部屋に入ることが出来た。荷物は部屋に
置いてくれていた。私はすぐに裸になりバスルームに飛び込んで頭の先から少し
熱めのシャワーを浴びた。昨夜は夜行バスで風呂には入っていないし、今日は雨の中を
少し歩いたのでとても気持ちが良かった。爪先から疲れが排水溝に流れて
行くようだった。バスルームを出て冷蔵庫からジュースを取り出してテーブルの上に
置きテレビを付けると画面には当たり前のように神戸の事件を流している。私は
テレビのスイッチを消してジュースを一気に飲み干した。
夕飯の時間まで少し眠ることにする。私は瞬く間にゆっくりと深く現実の世界を
離れていった。

 ピピピッ!ピピピッ!時計のアラームで目を覚ました。午後7時にセットしたので
4時間程寝たことになる。窓の外を見ると雨はやんでいた。私はすばやく着替えをして
雨上がりの花巻の町にでてみた。雨はやんではいたが又降り始めてもおかしくはない
空模様だが、私は夕食を食べに薮屋に向かった。この店は宮沢賢治もよく通った店で
賢治は天ぷらそばとサイダーをよく注文していたそうだ。私も彼にあやかって同じ物を
注文してみた。おかしい物で賢治もこの味のそばを食べていたのかと思うと隣の
テーブルに賢治がいるようだ。店を出て北上川に行くことにする。そこはイギリス
海岸と賢治が名付けたところで薮屋からは2・30分程歩いた。特に何があるわけでは
ないが、北上川がゆっくりと、とうとうと流れて行く様は時間の流れが少し遅くなった
ように感じられた。厚い雲に月光は隠されていて、周りの現代の様子は分からなかったが
それが逆に幸いして賢治の見ていた風景と同じだったのではないかと思われ
しばし岸を滑っていく波の小さい音を聞いていた。
小さい雨滴が右手の甲に落ちたのをきっかけにホテルに向かって川岸を後にした。
商店街は早く店を閉めてしまうのだろう。コンビニエンスストアーと飲み屋と一部の
店しか開いていない。又それらの店も音楽は聞こえてくるが人の活気は外には漏れて
いないようだった。歩道を歩いている人にもほとんどあわない。車もときどきにしか
走っていない。とても静かな街だ。幸い雨もやんだようだ。ホテルに戻り簡単に
シャワーを浴びて一息着いた。明日は雨ニモマケズの石碑の建っているところに
行くことにしよう。

 夕方仮眠をしたのに睡魔がおそってきた。ベッドの中に入り静かに目を閉じていると
いつしか眠ってしまっていた。

 2日目の朝は曇りではあるが雨の心配はなさそうである。8時過ぎにレストランで
朝食をすませてからゆっくりと支度をしてホテルを後にした。駅前の案内所で宮沢
賢治の石碑の場所を聞きバスにて向かった。その場所は記念館よりも南の位置にあり
やはり町中からは離れている。ここは賢治が晩年を過ごした所で宮沢家の別宅があり
ここを「羅須地人教会」と名付けて地元の農民に農業を化学的に指導をし自らも田畑を
耕して生活していた所だ。その時の建物は他の地に移築されているが井戸の痕と
雨ニモマケズの石碑が建っている。そこは少し高台になっていて眼下には水田が当時の
ままのように広がっている。賢治も目の前の坂道をクワを持ってのぼりおり
していたのだろう。
又驚いたことにここには観光地にありがちな売店や雑多な音はない。ひっそりと残って
いる。しばし鳥の声と時々頭上を横切るジェット機の音だけを聞いて水田を眺めて
いる。バスの時間が来たためにバス停に向かって歩き出した。結局30分ほどここに
いたのだが誰にも会わなかった。バスで再び花巻の駅に戻ってきてからタクシーで
もう一度記念館に行ってみた。ロビーでコーヒーを飲みながら店員の女性と話をし、
かんたんに一回りをしてから昼食を食べに山猫軒に行った。実はここのメニューが
気になって食べてみたくなったために来たのだった。
私は昨日から目を付けていた山猫雑炊を注文し期待を胸に待ったが、結局はさほど
満足は出来なかった。

 記念館を後にして再び花巻の駅に帰ってきた。賢治ゆかりの施設は羅須地人教会・
賢治のお墓・賢治の生家などあるが、次回のためにとっておくことにする。そうした方が
又来る良い口実になる。花巻駅から在来線で盛岡に向かう。そのまま東京に帰るのなら
新花巻から新幹線で東京に向かうか在来線をそのまま南下すれば良いのだが最終
目的のためには盛岡に行かなければならない。それはわんこそばを食べるためでも
海のパイナップルといわれているほやを食べるためでもない。それは新幹線の「速達
やまびこ」に乗るためなのだ。この新幹線は盛岡を出ると仙台と大宮しか停まらない
物で盛岡と東京を2時間20分ほどで結んでいる。おそらく最高速度は275キロは
出すのだろう。私は電車に乗っているだけでも満足する。
盛岡で買った駅弁を食べながら短かったイーハトーブを後にした。この次に来る時は
ぜひ温泉に入ってゆっくりとするつもりだ。もちろん賢治がよく通った大沢温泉で。

 花巻の町はゆっくりと時間が流れている。賢治がこの世を去ってから63年も
たっているが、花巻の町の至る所で時間の流れが緩やかな場所がある。そこにいると
賢治の姿や息づかいも感じられそうである。しかし賢治が本当に見ていた物は僕には
見えない。それを見るにはまだまだ時間がかかりそうである。
後、どれだけ花巻に足を延ばすことだろう。






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